決意

幕が上がると、舞台から観客がこちらを注目している。

そして、司会のアナウンスが入る。

「長らくお待たせしました。」

ここらでも分かる。取り残された菅野が呆然としていた。

俺と戸松は舞台の上で深く礼をする。

そして、次のアナウンス。

「ソープルートのお二人です」

そのアナウンスが終わるとともに、戸松はスタンドを前に舞台中央に、俺は左奥にあるピアノに腰を下ろしていた。

喧騒が静まり返る。

しかし、演劇ではないので声を荒げる観客もいた。

そして、前触れもなく、俺は鍵盤に指を走らせる。

ピアノの激しく軽快な曲が体育館に響く。

さっきまで騒いでいた観客は、ピアノの音に「黙って聞け」と言われているように何も言わなくなる。

ピアノのコンクールに出なくなっていても、俺はピアノを弾いていた。

それしか俺には無いのかもしれないという不安で、ただ毎日鍵盤に指を置いた。

しかし、俺はピアノを弾く理由を失っていた。

何の為にピアノを弾くのか。

その理由だけを探していたのだ。

進学のため?

自分の将来のため?

そんな事では、どうしても弾く理由には足りなかった。

今は、今だけは、つぐみと菅野の為に弾こうと思った。

誰かの為に、誰かが笑顔になってくれる様に。

俺は菅野の日高への想いを、心の底から応援したいと思ったのだ。

それは自分の命も、利益も何も関係なく。

そして、彼女には笑っていてほしかったのだろう。

楽しい日々の終わりを、菅野の絶望する顔を見たくなかったのだ。

それは自己満足でも、何でもかまわない。

ピアノも何かの為に弾きたいと思う。

だから俺は何かの為に生きたいと思う。

その叫びを鍵盤に込める。

その曲は一、二分くらいだっただろう。

最高潮になった頃に、一つの音で演奏を一度切る。

予想もしない終わりに、誰もが拍手を忘れてしまう。

観衆が呆気にとられている間に、俺は次の音を奏でる。

その伴奏から、誰もが知っているような有名な曲だというのが分かったのか、ヒソヒソ話す声が聞こえる。

そこからは、ただ歌を届けたいと願った。

 

 

「凄い…」

私が思わず口にしてしまう。

さっきまで隣にいた菅野雪乃の同級生、長谷部涼平の面影は舞台上の彼からは伺えなかった。

まるで他人だ。

そして、この曲どこかで知っている。

確か、少し前でテレビでやたら流れていたCMに使われていた曲だ。

伴奏が終わると戸松さんが歌い出す。

それはまるで、テレビで流れていた歌声そのままだった。

客席が騒然とする。

そして戸松さんの歌声に、つぐみちゃんが合わせて歌う。

「長谷部も凄いけど、戸松さんも歌が凄く上手…」

「ここまでやってくれるとはな…」

水樹会長がポツリと呟いた。

「会長は知っていたのか?」

その問いに、彼は答えにくそうな態度をする。

そのまま少し考えてから、小さい声で口を開く。

「二人とも有名人だよ。菅野さんは知っていると思ったけど」

ここで少し納得する。

まるで長谷部に期待しているような発言を、会長がしていたことだ。

「二人は一応、プロのアーティストなんだよ」

私は「え?」と叫びそうになるのを堪える。

「それにしても二人共、上手すぎませんか?」

「長谷部くんは即興だろうけど、戸松さんは持ち歌だからだろう。」

持ち歌?

理解する前に、会長が答えを言う。

「確か、戸松さんは『ソープルート』という名前で活動していたはずだけど…」

どこかでその名前を耳にしたことがあった。

そうだ、日高の好きなモノを聞き出した時―――。

「そういうことか…」

気付けば、そう言葉にしていた。

まるでパズルのピースが揃ったようだった。

そもそも叶うわけない相手に、勝負を挑んでいた気分にされた。

足元を見ると、つぐみが一生懸命歌っている。

しかし、想いを込めた歌が見えない相手に届くなんて夢物語は、やはりテレビや漫画の中にしか存在しないのではないだろうか。

しかし、それは現実になる。

平野亜希が、周りを見回して

「戸松さん以外に誰か歌っているような…」

「つぐみちゃんだよ」

私の言葉に、亜希の頬に一筋の涙が流れる。

「亜希?」

「何故だろう、涙が出てくる」

「今、つぐみちゃんが隣で歌っているよ」

涙を拭いながら、亜希は一生懸命笑おうとするが、それ以上に込み上げてくるものがあるのだろうか。

それを抑える様に、胸を抑えながら話す。

「声が聞こえないのに、何故かつぐみに『笑って』と言われているような気がするの」

「そうだよ、つぐみちゃんは亜希に笑って欲しくって一生懸命歌っているよ」

「この歌はね、つぐみが元気づけてくれる時に、いつも歌ってくれたんだ」

つぐみは亜希が泣いていることに気づくと、歌うのを止めて駆け寄る。

何度も「大丈夫、お姉ちゃん?」と聞いているが、もちろん届いていなかった。

「つぐみには、いっぱい八つ当たりした…両親の離婚だって、あの子のせいじゃないのに」

「亜希はどうしたいの?」

「謝れたらって…でも、つぐみは目を覚ましてくれない…」

泣き崩れても、亜希は精一杯話す。

そして俯き、涙で地面に斑点を作りながら声を絞り出す。

「私、お姉ちゃん失格なんだ…」

「ううん、お姉ちゃんはつぐみの自慢のお姉ちゃんだよ」

つぐみが慰めるように声をかけると、ハッとして亜希が顔を上げる。

「つぐみ?」

「亜希?」

「今、つぐみの声がしたような気がしたの」

キョロキョロして、つぐみの名前を呼びながら亜希が彼女を探す。

それに呼び返す様に、つぐみも一生懸命に呼び続ける。

本当に映画やテレビの中で出てくる、そんな在り来たり奇跡の様だ。

でも、今はそれで良い。

彼女たちの願いが叶うなら、それがどんや安っぽいモノであろうと、彼女たちにはかけがえの無いものなのだろうから。

しかし、亜希から彼女は見えないままだった。

「お姉ちゃん、つぐみはお姉ちゃんの事大好きだよ」

「私もつぐみの事が大好きだよ」

お互いが瞳に涙をためながら、声のボリュームを上げていく。

しかし、菅野はつぐみの身体が光っているのに気付く。

まるで体が光の結晶になって空中に溶けていくようだった。

二人の雰囲気から、それを言葉にするのを躊躇った。

「私が起きたら、一緒に遊んでくれる?」

「うん、一緒に買い物してご飯食べて、昔みたいに夜更かししよう」

亜希は声が聞こえる方向を見つめて、会話を続ける。

最後の力を振り絞るように、つぐみは笑顔で言葉を返す。

「約束だよ」

「ええ、約束よ」

「ありがとう…バイバイ、またね、お姉ちゃん」

言葉が弱くなり、菅野の目でもつぐみは見えなくなっていた。

亜希が慌てて、周りを見まして声を張り上げる。

「つぐみ!つぐみ!」

しかし、彼女の呼びかけに対する声は聞こえてこない。

そのまま彼女は、崩れるように膝をつく。

つぐみの別れに言葉で返さず、ただ笑顔で声がしていた方向を見つけていた。

まるで計ったかの様に、音楽が終了し静けさが空間を支配する。

そして、少しの間を開けて拍手が鳴り響く。

さっきまで野次を飛ばしていた人間も、手を叩いてステージに立つ二人を讃えていた。

その光景は、ものの数分前とは全く違った世界だった。

そう、彼らの演奏で多くの人々の心が動かされ、その空間を色付けたのだ。

二人は少し目を合わせると、満足そうな笑顔で深く御辞儀をして、舞台袖に隠れてしまう。

 

 

 

舞台袖には吹奏楽部が待っていた。

準備が間に合ったらしい。

そして、その奥には一人の男子生徒が立っていて、頭を下げられた。

中止になった演目の責任者だったらしい。

彼に「気にするな」と言い、肩を叩く。

そうだ、俺は自分の為に、自分が笑顔にしたい人の為にピアノを弾いただけなのだから。

「長谷部」

菅野が、凄い勢いで走り寄ってくる。

呼ばれて、近付いたが彼女も言葉を用意していなかったのか、暫しの沈黙になる。

「長谷部…」

「菅野」

二人に不思議な気まずさが、沈黙を作る。

その様子を見かねて、戸松は溜息を小さくつくと、背を向ける。

「私は次の準備に行ってくるよ」

返事をする間もなく、彼女は足早に消えてしまう。

戸松の姿が見えなくなって、俺が思い切って口を開ける。

「あ、菅野…」

「雪乃、長谷部君」

俺の決意を遮るように、後ろから平野が呼びかけてくる。

ステージ上からでも、平野が泣き崩れたのが分かっていた。

きっと何かあったのだろう、それだけが分かっていた。

そんな目の前の彼女は、いつも通りの冷静な表情で歩いて来た。

「亜希…」

「二人共、ありがとう」

そして、その場につぐみがいない事に気づくと、「つぐみちゃんは?」と二人に確認する。

笑顔で菅野は、何も言わずに首を縦に振る。

その表情で、何となく彼女たちの想いが通じ合った事が分かった。

「そうか…」

と、俺は胸を撫で下ろした。

「長谷部君は、噂通りに凄かったわ」

「いや、ただ夢中だっただけだよ」

自信は半分だった。

家に時々来る戸松に、無理矢理弾かされることも少なくなかったが、ぶっつけ本番で形にしただけだった。

でも、今は自分が出来る事をしたいと願った。

「長谷部が、ピアノを弾けたとはね」

「なんだよ…」

何処かしら意地悪そうな顔をする菅野の表情に、何故か照れくさくなる。

ピアニストとしての自分を知らない人間に、後から興味持たれるというのも初めての体験だったのだ。

「いや、全然似合わないなって思って」

「大きなお世話だ」

「それでも、ありがとう」

茶化すような仕草から一変して、菅野は改めて軽く頭を下げる。

何故か更に照れてしまい、視線を大きく逸らす。

「私からも礼を言うわ、ありがとう」

横から平野も、言葉をかけてくる。

「俺は、自分の出来る事を探しただけだよ」

「それでもよ」

平野はいつも以上に優しい笑顔で続ける。

「私、つぐみに会いに病院に行こうと思うの」

その言葉に俺は停止する。

会いにいく?

菅野も同じ事を考えていたらしい。

俺とまったく同じ様に何を言えなくなっていた。

その反応に、平野は腹を抱えながら声に出して笑ってしまう。

「つぐみは生きているわ…ただ病院のベッドで目を覚まさないだけ」

誰にも見えない魂の存在というだけで、二人はつぐみが幽霊だと決めつけていた。

幽体離脱という事か。

モトの奴、紛らわしい言い方をしやがって。

勝手に勘違いしたのは俺だけど。

「私の両親は夫婦仲は良かったけど、私たちの世話や仕事などの色々なストレスが、ちょっとした口論が引き金となって擦れ違い、気づけば離婚まで行き着いてしまったの」

平野が視線を落として話す。

「つぐみは、そのショックで寝込んで今でも目を覚まさないの…あの子に最後に投げかけた言葉は最悪だったわ」

「目を覚まさない原因は?」

俺の問いに、彼女は首を横に振るだけだった。

「私はずっと怖かったの…つぐみは私を憎んでいるじゃないかって…私のことが嫌いで目を覚まさないじゃないかって…」

弱々しくなる彼女の肩は震えていた。

彼女にとっては、妹に投げかけた言葉の後悔と、そのまま誰にも責められずに蓄積された自己嫌悪をずっと抱え込んでいたのだろう。

「でも今日久々に話せて、本当の気持ちを伝えられたわ」

まるで自分の迷いを打ち消すように、顔を上げて真っ直ぐ俺たちに向き合った。

そのまま深くお辞儀をすると、「ありがとう」と感謝を表した。

「すぐにでも、つぐみちゃんの所に行ってあげなよ」

起き上がり、首を横に振りながら彼女は菅野の言葉に首を横に振る。

「ありがとう…でも、この文化祭での私の役割も大事だわ」

彼女の瞳は強がりでも義務でもなく、自分の信念が伺えた。

そして、その後に「ここで投げ出したら、つぐみに後で怒られそうだしね」と、付け足した。

そのまま彼女は、簡単に挨拶をして舞台の進行に戻って行く。

客席の方向に目を向けたが、水樹の姿もなかった。

「…俺らも行くか?」

俺が切り出す。

二人だけの時間に戻ってしまう。

また朝のように、言い合いになってしまうのが怖かった。

少し間を置いて、菅野は「うん」とだけ答える。

弱々しい返事をすると、彼が話を続けることもなく背を向けて歩き出す。

このままでは何も言わずに、元に戻ってしまう。

「私、告白しようと思うんだ」

菅野が小さく弱々しく言葉を零す。

その発言に、自分の思考がまた停止している事に気付く。

「日高君に気持ちを伝えようと思うんだ」

今度の言葉はハッキリと聞き取れるぐらい大きく声にした。

それは確実に、俺自身に投げられた決意だった。

「私は前を向いていたい…それで凄く傷ついても、自己満足だって思われても前を向いていたいんだ」

今までと違って、言葉に迷いはなかった。

スカートの裾を強く握る彼女の右手が、無意識に小さく震えているに気付く。

「長谷部が黙っていたことは、正直許せない…」

その一言が心に突き刺さる。

覚悟していたとはいえ、かなりのダメージがある。

しかし有耶無耶にするのではなく、それが彼女なりの答えだったのだ。

受け入れなければならない。

「だけど長谷部は私を騙したり、傷つけようとして黙っていたわけじゃないって信じようと思った…だって、今までの長谷部のアドバイスは、常に一生懸命だったから」

「菅野…」

俺の言葉を遮るように、穏やかな表情をする。

それはまるで、「何も言わなくてもいいよ」と言うように。

「私は後悔したくないんだ」

そう言って彼女は、すっと背を向ける。

「では、恋のアドバイザーさん…私はどうしたらいいのかな?」

これは彼女なりの儀式だろう。

こうでもしないと、俺は自分自身を責めるだろうと、仲直りの儀式なのだろう。

無言の時間の後、俺は慎重に言葉を伝える。

「このまま想い続けてれば、いつか日高が好きになってくれる可能性もある…だけど、菅野が今すぐに届けたい気持ちがあると言うのなら、それは形にするべきだ」

表情は見えないが、菅野の方が少し反応する。

「菅野、お前が日高に抱えているのは、お前の恋愛だ…お前だけの想いだ。それはお前が形にしたいときに形に出来るものだ」

振り返らないで、彼女は聞く。

「フラレちゃうよ?」

「それでも、お前は日高に想いを伝えたいのだろう?」

無言になって、彼女は肩を震わせて顔を俯ける。

それは迷いではなく、傷つくことへの恐怖だった。

「世界の誰もが批判しようが、俺はお前の味方だ」

小刻みに震えていた肩を止まると、鼻をすする音と共に顔を上げる。

我ながら、なんて酷いアドバイスだろう。

結局は自分の意志を大事にしろ、お前の恋愛だろうと来たもんだ。

しかし、どんな酷い結末でも見届けてやらないといけないだろう。

「盛大にフラレてこい」

「玉砕前提なんだ」

涙声を隠しながら、彼女は笑って冗談に反応する。

「他力本願なアドバイザーだな…」

皮肉っぽく彼女は小さく笑って、「ありがとう」とだけ残して足を前に進めた。

体育館から姿を消すまで、何故か俺は動く事が出来なかった。

そして、気づけば舞台では吹奏楽部が演奏を始めていた。