彼女と彼の事情 陸

十月中旬になると、空気も少し冷たくなって衣替えも終わっていた。

智の手術も一週間後に控え、俺はただ怯えて過ごしていた。

その恐怖から逃げる様に、その日は病室に直接行けずにホールで考えに耽っていた。

戸松や日高からは励まされても、どうしても智を失う未来への不安でいっぱいになってしまった。

ピアノも、もう一週間も触っていなかった。

「涼平さん!」

横から声をかけられて、視線を向けると見知った顔が立っていた。

「葉月ちゃん」

「お姉ちゃんが、来週手術するって…」

「う、うん」

そのとき、何故か罪悪感が心を満たした。

智も葉月には最後まで納得してもらえなかったと、少し悲しそうだった。

俺の反応に彼女の視線が冷たくなるのを感じた。

「知っていたんですか?」

「この前、智と話したんだ」

その発言で、冷たさから憤りに変化するのが分かる。

彼女はきっと姉のことを想って、その結果で彼女の手術を止めようとしているのだ。

「何で、お姉ちゃんと止めてくれなかったんですか?」

その問いかけに、俺は無言でいた。

智からは、「葉月はいつか理解してくれる」と楽観視して、話すことを保留にしていた。

そこに第三者である俺が、どこまで口を挟んで良いか迷っていた。

「それとも、涼平さんはお姉ちゃんに長く生きてほしくないんですか?」

「そんな事はないよ!」

俺も感情的になって、声を荒げた。

夕方のホールは人も少ないせいか、俺らの声が響いた。

二人で響く声で冷静になり、揃って声のボリュームを落とす。

「だったら、何で止めなかったんですか?」

「智…お姉さんが望んでいる事なんだ」

「そんな事ない…凄く死ぬ事を怖がっている」

俺は黙ってしまう。

死ぬのが怖い、そんな言葉を初めて聞いたからだ。

「この前、お姉ちゃんが病室で取り乱しているの見たの」

しかし、少し考えれば分かったことだった。

誰だって死ぬのは怖い、それは彼女も同じだろう。

まだ齢十四歳の女の子が強がっても、死ぬことに恐怖しないはずが無かった。

そんな簡単なことすら、俺は理解しようとしなかった。

「死にたくないって」

もう聞きたく無かった。

何が正しくて、どうすれば智が救われるのか分からなかった。

「どこに行くんですか?」

と、葉月に呼ばれる。

無意識に立ち上がっていたようだ。

一秒でも早く、その場から立ち去りたかったのだ。

「すまん、もう何も言わないでくれ」

もう限界だった。

縋るような葉月を振り払って、俺は病院を後にした。

 

 

そして、向き合うことも逃げることも怖くなった。

智の気持ちにも、葉月の気持ちにも何一つ向き合えず時間だけが過ぎた。

俺はそのまま手術前日まで、病院に行くことが出来なかった。

前日に病室に行くと、「久しぶり」と明るく智に出迎えられ、それで更に苦しくなった。

臆病になっていた俺を見透かす様に、彼女は「ありがとう」と一言かけてくれた。

その日、俺は病室に入ってから会話をせずに、ただ黙って俯いていた。

彼女は気にしていないように、アイスを口にする。

「アイスなんか食べていいのか?」

「平気…だと思う」

彼女なりに強がっているのだろう。

またお互い黙ってしまう。

ただ外の音が、窓越しに部屋に響く。

『彩〜sai〜』と書かれたパッケージのアイスを食べ終えると、彼女は俺に話しかけてくる。

「どうしたの、暗い顔して?」

「手術、本当にするのか?」

今更だと思うが、聞かないわけにはいかなかった。

「やらないで後悔するより、やって後悔したいの」

「死ぬかもしれないんだぞ」

彼女はきっと死ぬことが怖いはずだ。

何故、それにもっと早く気付いてやれなかったのか。

「私は涼平に好きと言ってもらえて、欲が出たんだと思う」

「俺の事は関係ないだろう?」

「関係あるわ」

顔を上げると、彼女が優しい笑顔をこちらに向けていた。

「私は涼平を愛しているわ。だから、生きたいの」

泣きたいほど、その気持ちが嬉しかった。

だからこそ、俺も彼女の痛みを知りたかった。

「ごめんね、涼平の気持ちは無視しているわ」

「そんなことはどうでも良いんだ…ただ、お前が…」

智が死ぬことに怖がっていることを考えずに、ただ無責任に一緒に生きることを望んでしまっていたのかもしれない、そう思い始めていた。

「確かに、勿論死ぬのは怖いわ…でも、このままでいるのはもっと怖い」

彼女はただ強がっているように見えた。

「すまない」

「何で、涼平が謝るの?」

「俺はお前の気持ちを理解出来ていなかった…死ぬのが怖く無いはずがなかった」

「私は大丈夫よ」

彼女は立ち上がろうとするが、蹌踉めいてしまい、その場で座り込んでしまう。

「無理するな」

俺はすぐに寄って行き、肩を抱きかかえる。

「急に立ったから、少し足が動きにくかっただけよ」

彼女は、もう立つことも苦しくなっていたのだ。

そんな彼女を見ていると苦しくなった。

その様子を見て、彼女は俺を抱きしめる。

「お願い、私の傍に居て」

俺はそのまま抱きしめ返す。

「ああ、俺はお前の傍にいるって決めたんだから」

「うん、ありがとう」

顔の見えない彼女は、涙声でそう答えた。

そして次の日、手術は予定通りに行われた。

俺らは、行き場を失くす様に学校で過ごすことにした。

 

そして、手術は成功した。