彼女と彼の事情 伍

翌週、俺は智から個室に移る事を聞かされる。

予想以上に病状は悪化しているようで、彼女の様子からは微塵も連想出来なかった。

その話をされて、俺は少しショックだった。

葉月の話といい、時間の流れは待ってくれない。

智にはいつか終わりが来てしまう。

その事実に、また俺は目を逸らしていたのだ。

狭い相部屋のスペースに俺は、智と二人でゆったりした時間を過ごしていた。

個室の話が出て、俺は何と言い出したら良いか分からず、ただ二人で外の風景を見て過ごしていた。

五分くらいだろうか、智から話しかけてくる。

「涼平、ピアノの練習してる?」

「しているよ」

練習は実際していた。

ただ集中出来ていた以前と違って、ピアノ以外の何をやっても乗り気にはなれなかった。

「毎日、此処に来ているじゃない」

「此処に居る以外は、練習しているよ」

「コンクールも近いんだから」

「五月蝿いな」

コンクールの話はしたくなかった。

また「また私と一緒に出よう」と、言い出されるのが怖かったのだ。

「私が居なくて、万年二位君のチャンスなんだから…」

でも、こういう冗談に俺は怒りを覚えたりできた。

乾いた笑いで握り拳を見せて、滞りを意思表示する。

少し気まずい空気がほぐれて、俺はずっと聞きたかった質問を投げることにした。

「そう言えば、智」

「何?

「智は手術は…」

「するわよ」

即答だった。

彼女の中では、もう意思は固いようだった。

凛とした眼差しで俺を見つけて来る。

「即答だな」

「当たり前じゃない」

そう言って、彼女は微笑みを浮かべる。

予想していた事だが、ここまでハッキリと返されるとは思わなかった。

彼女の中では、きっとだいぶん前から決まっていたのだろう。

「ねえ、涼平」

穏やかな沈黙が走る。

それはきっと、彼女の表情が優しくなったからだった。

そのまま彼女は一つの提案をして来た。

「病院を抜け出さない?」

 

 

十月になると海辺も寒くて、俺らは海岸沿いのコンクリートの道を歩く。

高い壁に昇り二人で歩く。

もう日も少し傾いていて、赤と青の入り交じった空が天井に広がっていた。

海もそれを反射して、二色の色合いに同調する。

右手には車のは知る道路、左手には海が広がり、手前にはテトラポットの山が境界線を作る。

壁の上は二人分も幅が無いが、人が歩ける様になっていた。

少し風が強いせいか、波が押しては返す様にテトラポットに水を打ち付ける。

私服に着替えた智は少し厚手のジャケットを身に纏っていた。

そして、ただ二人で前を向いて歩いて話しだす。

「何で手術するんだ?」

「手術しなければ、悪化せずに生きられる可能性があるかもしれない…そう思う?」

「少しは思う」

「涼平は、本当に正直ね」

彼女がクスクスっと、抑えて笑う。

しかし、俺は本当にそんな望みもあるんじゃないかって信じていた。

「確かに体調は変わってない様に見えるかもしれないけど、自分では分かるのよ」

「それで個室に移動したのか?」

「それもあるわ、だけど準備もあるの」

「準備?」

俺の問いに、彼女は振り返って頷く。

「手術をするための準備よ」

予想通りの答えだった。

ここまでの流れで、彼女は準備を進めていたのだろう。

「一人で決めたのか?」

「ええ、お父さんとお母さん、葉月には話したわ」

「反対された?」

「お父さんと葉月は反対したわ…でも、私の気持ちを聞いてお父さんは納得してくれたみたいだったけど」

智の父親は俺と同じ心情だった気がした。

それは、きっと現実から目を逸らすためだったのだろう。

それで娘を失わずに済むのではないかと、希望を持ちたかったのだろう。

「私はただ生きているだけじゃなくて、涼平の傍で涼平と同じ学校に通って、涼平とピアノを弾いていたいの」

「でも、それで失敗したら…」

「死んでしまうわ…でも、このまま涼平と歩けなくなるのも、ピアノも弾けないのも嫌なの」

彼女は自分でその未来を望んでいるのだ。

俺はその場に座り込んで、海側に足を垂らす。

「何となく、そう言うと思っていた」

観念した俺はそう零した。

「流石、私の彼氏だね」

俺の様子に彼女は笑顔になる。

そして、俺の横に座る。

きっと彼女は、俺が理解してくれると信じていたのだろう。

「それに、また一緒にピアノ弾こうって約束したよね?」

笑顔を俺の顔に近づけてくる。

数十センチで触れてしまうほどの距離で、彼女は肩を寄せて手を重ねてくる。

その綺麗な瞳、手の感触に緊張していた。

目を離せない、という言葉が適切だろう。

「まだ失敗すると確定したわけじゃないでしょ?」

「そうだけど…」

「それとも、涼平は失敗すると思っているの?」

「そんな事は無い」

ずるい質問を投げられているようだった。

此処で否定出来ないのを知って、彼女はこの質問をしてきたのだろう。

「失敗するかもね…でも、私はそれでも夢に向かって生きたいの、失敗しても『あー頑張ったけど、駄目だったかー』って笑いながら死にたいの」

「そうか…」

そんな彼女は、間違いなく自分が大好きな彼女だった。

こんな心の持ち主だから、俺は彼女に惹かれたのだと思った。

「涼平は、何の為にピアノを弾くの?」

「さあ…」

この質問は二度目だったが、あれから特に考えた事もなかった。

「私は大好きな人たちに、想いを届けるためよ…幸せになって欲しいって」

彼女は赤くなる夕日に目を向けて、真っすぐに瞳で語る。

それは夢を語る子供のような、純粋で前だけを向いているような表情だった。

「誰かの幸せを願うことって、難しいけどね」

「幸せって定義が曖昧なんだよ」

俺の意見に彼女は、「涼平はそういう所が、冷めているんだよね」と、厳しい反応をされる。

「つまらない男で悪かったな」

と、拗ねるフリをして見せると、彼女は俺の肩に頭を乗せて来た。

俺は更に硬直してしまう。

「緊張しているでしょう?」

「う、五月蝿い」

心臓の音など聞かれたら、きっとバクバク言い過ぎて笑われてしまいそうだった。

「私も凄く緊張している」

「そんな感じには見えないけど」

「心臓なんて激しすぎて、音聞こえないか心配するくらいだよ」

俺は繋いだ手を強く握った。

そのまま少しの間を置いて、彼女は話を戻す。

「相手に笑って楽しく過ごしていて欲しいってことだから、至ってシンプルなのよ」

「難しいのか、シンプルなのか…」

彼女の幸福の定義はきっと物欲とか、そういうものを含めずに単純に満たされて笑っていられる事を示していた。

それはきっと基準は曖昧で複雑なものだと、彼女は言う。

「でも、単純に何もかも綺麗に収めるのは難しいかもね」

少し切なそうにする彼女は、そのまま持論を展開していった。

「幸福には犠牲は付き物だしね」

「犠牲?」

「幸せになるってことは、誰かを傷つけたりする事も伴ったり、何かを失ったりする事もあるからよ」

「受験に成功したら、必ず誰かが落ちているっていうのと一緒か」

確かに彼女の言う通り、皆が幸せなんて綺麗事だと思っていた。

全員が幸せになる結末なんて、ご都合主義のドラマの中だけだと思っていた。

「そうね、意外とシンプルなようで、世の中って不条理に出来ているの」

俺と同じ様に理解していても、きっと彼女はその現実が好きじゃない、そう感じられた。

その証拠に、その言葉を言った彼女は本当に辛そうだった。

「でも大好きな人が幸せになるために、傷つくのは自分がいいわ」

その言葉に俺は驚かされる。

こんなにも誰かを想い、誰かの為に自分を犠牲にする事ができるのだろうか、と。

綺麗事かもしれない、だけど彼女の言葉には、何処かしら説得力があった。

言い終えて、彼女は「恥ずかしい事言っちゃった」と、照れてみせる。

「自分で言い出しておいて、自分で恥ずかしがるなよ」

彼女が笑顔で誤摩化す。

「でも手術はするんだな」

「するわ」

「俺が一人になってしまうかもしれなくてもか?」

狡い質問だった。

彼女の理屈だと、俺の為なら手術を受けられない。

その選択で俺が幸せにならないのであれば、矛盾が生じてしまう。

「涼平は、本当に私に手術をして欲しくない?」

「それは…分からない」

この駆け引きには理由なんてなかった。

ここでその場凌ぎの理屈を並べても、きっと彼女には何の意味も無い。

「私は涼平の幸せも、自分の幸せも願っているの…だから、私は手術をします」

きっと、答えは彼女にとって簡単なのだろう。

ここで「たられば」を並べて未来を不安に思うより、彼女は自分で俺と歩む道を作りたいのだろう。

そこにある二人で幸せになれる未来を目標にして。

彼女には適わないと思わされたと同時に、これが彼女の愛情の表現方法なのだと思い知らされる。

もう止めることを諦めた様に、俺は黙って笑顔を返す。

その反応に彼女は「ありがとう」と、優しく微笑んでくれる。

そして、彼女はすっと真面目な表情で俺に再び同じことを聞いてきた。

「もう一度聞くわ…涼平は何の為に、誰の為にピアノを弾くの?」

「俺は…」

そのとき、何の為に弾くべきか迷わされた。

当時の俺には、彼女のような大きな夢も願いも無かった。

ただ弾く。

そのことが、凄く無意味に感じさせられた。

「分からない」

「そうか」

ハッキリしない返事に、何故か彼女は笑って立ち上がる。

少し考える仕草をして数歩歩くと、急に振り返った。

「それじゃあ、私の為に弾いてよ」

「智の為に?」

彼女の為に、その言葉に何故かドキッとしてしまう。

でも誰かの為にピアノを弾いたことも無く、何と返事をしたら良いか分からなかった。

「次のコンクールの課題曲なんだっけ?」

「『ジムノペディ 第一番』」

今回の課題曲は予想以上にメジャーな曲だったため、意外とガッカリしていてた。

難題な曲のが、それを熟していく過程が好きだった。

「その曲、私の為に弾いてよ」

一歩、近付いて彼女が顔を近づけてくる。

上目遣いで御願いしてくる彼女の顔が可愛くて、視線を海に向けてしまう。

わざとやっているんじゃないかって、疑問を抱くほどだった。

更に一歩近付いて来た段階で、俺は観念した。

「分かった」

どうやるか分からなかったが、自分の大切な人が自分の為にピアノを弾いてくれと頼むのだ。

断る理由もなかった。

「ありがとう」

凄い勢いで智の顔が胸に飛び込んでくる。

両腕を背中にまわして、強く抱きしめてくる。

そのままの沈黙に、俺は嬉しさと混ざった不安を感じていた。

きっと彼女も何かを考えていたのだろう。

回した手が強くなる。

そして、俺はその不安を包む様に彼女を抱きしめた。

そのまま何十分も俺らは黙って抱きしめ合っていた。