それぞれが伝えたいこと

それから、俺は少しして店を出る。

沢城の言い分も、理解出来ないわけではなかった。

俺はどうしたいのか、第三者から見れば理解出来ないだろう。

でも、俺はただ純粋に、彼女が幸せになってほしいと願っているのも事実だった。

そこに自分という存在がなくても。

そうやって翌日、俺は放課後まで物思いに耽っていた。

沢城は昨日のことをなかったように普通に接してきて、こういう所が自分はまだ子供だと思い知らされる。

放課後の喧騒の中、俺は教室を足早に出て行く。

色んな言葉が頭を過って、この場所から少しでも早く脱出したかった。

「涼平」

そんな時に、後ろから声をかけられる。

振り返ることもなく、相手が誰か分かっていた。

「菅野、どうした?」

「昨日はすまん…」

「急用だったのだろう?」

へへへと、すまなそうに彼女が笑って歩いてくる。

悠木のこともあるので、沢城に揶揄われるのを避けたのだろう。

そう考えると、彼女の行動にも合点がいく。

「気にするな」

「ありがとう」

「職員室に行くのか?」

「ああ、よく分かったな」

「そのプリント」

僕が指摘すると、菅野は右手に持っていたプリントを見せて、「これか」と目で語ってくる。

「何名かまだ出してくれてなくて」

「それ、俺も含まれているよな」

「勿論」

やぶ蛇だった。

冬休みの前に行われる三者懇談の日程希望表を、今日までに提出しないといけないのだった。

まだ親にも見せてなかった。

申し訳なさそうに俺が苦笑いすると、彼女も優しく呆れ顔をする。

穏やかな空気が流れる。

「生徒会には行くのか?」

「ああ」と頷くと、彼女は俺に伝言を頼む。

「私は日直が終わったら、すぐに行くと会長に伝えておいてくれないか」

快く承諾すると、俺はそのまま彼女に背を向けようとする。

「涼平」

「何だ?」

「昨日、あれから沢城先生と何を話したんだ?」

少しぎこちなく彼女は、遠回しな質問をする。

わざわざ呼び止められて、投げかけられた質問に面を食らったが、その彼女の態度で少し謎が解けた。

少し悩んだが、俺も気にならないわけではない。

ここは沢城を利用して、彼女の心情を聞こうと思った。

「この前、三年の先輩に告白されたのか?」

ギクリとした顔になる。

やはり、彼女はそれを俺に知られたくなかったのだろうな。

「やっぱり知っていたのか」

「先生に彼が相談しているのは、聞いていたから」

「そうか…」

気まずい雰囲気になり、この話題をしたことを早くも後悔した。

しかし、ここで彼女と沼倉先輩をくっつけてしまえば、一番手っ取り早い。

俺は彼女が幸せになれば、生き返るハッピーエンドが待っているんだ。

しかも、彼女の態度からけっこう嬉しそうである。

何か変な気分ではあるが、彼女にこう言えば良い。

「良かったじゃないか、おめでとう」

こんなところだろうか。

―――では、他の誰かに彼女を取られても良いと言いたいんだな?

ふいに、沢城の言葉が蘇る。

その言葉を振り切るように、菅野との会話に戻る。

「実はけっこう前から、先輩とは廊下で会話することがあって」

お祝いの一言言ってやれば良い。

何故か声が出ない。

言え、言え!

「先週、卒業するまでに伝えたかったって、呼び出されて告白された」

言え!

たった一言だろう。

まるで、言葉を奪われたように俺は口をぱくぱくさせている。

「はじめは、返事は要らないと言われたんだけど…長谷部?」

「え、えっと…それで何て…」

「断ったよ」

俺はまたも何も口に出せずにいた。

それは、自分が勘違いしていたからではなかった。

「私には勿体ないくらいの人だったけど…どうした?」

静止している俺の顔を、彼女は顔を覗き込んでくる。

仰け反るように、俺は一歩だけ後退りする。

「なんでもない」

「そうか、顔が赤いけど熱でもあるんじゃないのか?」

熱を計る仕草で彼女の腕が、すっと俺の額に手を伸ばされる。

「大丈夫だ」

俺はその手を払って、「先に行っている」と教室を後にする。

呼び止められたが、俺は何も言えずに生徒会室を目指した。

脳内でさっきまでにやりとりが、ずっとリピートされる。

その時、俺は彼女への気持ちを本当に自覚してしまったのだろう。

 

 

何かに追われるように、俺は足早に目的地を目指した。

ガラガラと大きな音を立てて扉を開けると、先に居た水樹が少し驚いた顔をして俺を見る。

「長谷部君、どうしたんだ?」

「お疲れ、いや別に…」

今度は静かに扉を閉めると、生徒会室の中を見回す。

いつもなら、俺か菅野以外は揃っているケースが多い。

「会長だけか?」

「ああ、平野君は運動部の会議に参加しているよ」

「他の皆は?」

「とりあえず座ったらどうだ?」

水樹は返事をせずに、ノートパソコンを操作しながら俺を促す。

席を座ると、落ち着かせるように小さく深呼吸をする。

この水樹という人間は、沢城と同じく鋭いところがあるから気をつけないと。

「今日は春までのスケジュールの確認だっけ?」

「そうだな、でも今日は平野君がいないので休みにしようと、さっき皆に連絡したところだ」

水樹の言葉と同時に、ズボンのポケットに入った携帯電話のバイブが鳴る。

取り出した携帯には、水樹から先程の言葉がそのまま本文になったメールが届いていた。

「遅いよ、会長…」

落胆する俺に、水樹は心配そうな表情をする。

「何かあったのかい?」

ギクリとするが、顔に出さないようにする。

多分、いつもよりリアクションが大きいのだろう。

俺は、一生懸命笑ってみせる。

「別に…」

「菅野君と何かあったのか?」

「な、な、何でそう思うんだ?」

言っていて、自分があからさまに動揺しているのが分かった。

「長谷部君は隠し事が苦手だな」

かまをかけられたらしい。

この男と話していると、隠し事をしているのが無意味なんじゃないかと錯覚する。

「生徒会長の勘だよ」

「いますぐ捨ててしまえ」

「それで、何かあったのかい?」

すぐに切り返されて、俺はどう答えるか悩んだ。

「特に彼女と何かあったわけじゃないよ」

菅野と何かがあったわけじゃない。

だから嘘ではない。

自分の気持ちの問題だ。

「でも、一緒に川に飛び込んだ仲だと聞いたけど」

「どこから、そんな情報を手に入れるんだ?」

「うちの顧問はとりあえず情報を拡散するのが、ポリシーのような人だからね」

昨日、思い知らされたばかりだった。

沢城には、個人情報とかいう概念が通用しないじゃないだろうか。

「迂闊だった」

「しかし、君たちは修学旅行で関係が変わるのだと思っていたよ」

「すぐにそうやって、どいつもこいつも恋愛関係に結びつけやがって」

「僕は一度も、彼女と君が恋愛関係で変化するとは言っていないけど」

墓穴を掘った。

こうやっていつも誘導尋問されている菅野を見ているのに、不思議と警戒していても術中にハマってしまう。

この男は、弁護士か検事にでもなれば良いと思う。

「本当にそういうのではないぞ」

「そういうことにしておこう」

その態度に、何故か借りが出来たみたいになる。

もうこの反応で、「イエス」と答えているようなものだろう。

しかも、この男には俺の気持ちすら勘付かれている様だった。

諦めるしか無い。

「ところで、会長」

「何だい?」

ノートパソコンを操作する手を止めて、彼は俺の顔を見てくる。

「会長は、どうして生徒会長になろうと思ったんだ?」

「唐突だな」

水樹が虚をつかれた顔をする。

確かに、以前の俺ならそんなことに興味は持たなかっただろう。

「いや、今の俺は何をするべきかを、どうやら具体的に考えるほど余裕がないみたいでね」

彼が目を閉じて少し考えるポーズを取ると、少しして口を開く。

「長谷部君は、この学校に不満は?」

質問を質問で返されて、今度は俺が考えさせられる。

「いや、特に考えたことはないけど…」

この鈴ノ音高校は、他の高校に比べて校則がとにかく緩い。

数年前まではかなり厳しいと聞いたことがあるが、水樹とその前の会長の功績が大きいと耳にしたことがある。

「細かいことでも良いよ、他校と比べて此処を直してほしいとかあるかい?」

今さっき不満が特に見当たらないと答えたので、絞り出すように頭をひねる。

「そうだな…学食の料理を増やしてほしい…とかかな」

学食のメニューの種類はそこまで多くない、と言っても他の学校よりは多いくらいだろう。

ただメニューもハンバーグ定食、カツ丼…など、脂っこいものが多い。

たまには素麺とか、あっさりしたものが食べたい時は悩んでしまうのだ。

「他には?」

「あとは、バイトに関しては寛容になって欲しい面もある」

これは意外と口している生徒が多いと聞く。

実際、戸松も楽器やら活動費用を稼ぐのにアルバイトをしているが、時間やら業種やらの制限が多く、思った以上には稼げていないと愚痴を零していた。

俺の言葉に言葉で返さずに、表情が「他には?」と聞いてくる。

「…ぐらいかな…」

「そうか…では、長谷部君はそれを改善する為には、どうすれば良いと思う?」

「それは学校を説得するとか」

「そうだね、それが良いと思う…では、学校側はどうすれば応じてくれると思う?」

「難しいな」

やたら具体的な話を持ち出される。

考えるのも面倒なので「理事になって、運営でもすれば良い」と答えたい。

しかし、彼の言いたいのは生徒として、この学校を変える方法を問いてくる。

悩む俺に、先に彼は解を投げてくる。

「具体的な案とメリットを提示することだね…学校側も経営があるのだから、メリットがないのに生徒の要望だけを叶えられない」

「それはそうだな」

「では、その声をどうやって届けるか…」

「それで生徒会長になろうと?」

ここで、彼の話の意図が見えてくる。

結局、彼は自分で世界を変えたいのだ。

しかし、すぐに彼は俺の予想と違う返事をする。

「少し意味は違うかな…実際に僕が不満があるわけじゃない」

「ということは?」

「生徒たちの代弁者になって、学校を変えて行く…こんなに楽しいことはないと思ってね」

「スケールが大きいような、小さいような」

学校の自治という狭い世界で、彼はどこまでも高校生らしからぬ行動を取っている。

生徒会というより、政治に近い。

そんな印象を受ける。

「社会に出れば、嫌でもこういうことは必要になると思う」

「何か打算的だな」

「そうだな…あまり他人が聞いて、良いイメージを持たれない理由かもしれない」

「お前、全然高校生っぽくないな」

「よく言われるよ」

水樹という人間は、初対面の頃から年齢には疑問を抱く印象だった。

本当に同年代なのだろうか。

「ついでに言うと、僕は長谷部君のような特別に秀でたものがないからというのもある」

「でも、好きな趣味とか、スポーツとかあるだろう?」

「確かに、僕はこう見えても中学までは陸上部だった」

意外だった。

水樹はパッと見た印象では、運動部に所属しているイメージが湧かなかった。

囲碁部とか、茶道部とかが似合いそうだ。

「でも、走ることよりも楽しいことを見つけてしまったからな」

「それが生徒会?」

彼が無言で頷くと、話を続ける。

「最初はあまり褒められた理由ではないかもしれないが、今ではこの生徒会だけではなく、学校を良くして生徒に喜んでもらいたいという気持ちは強いよ」

「それは知っているよ」

俺は知っていた。

生徒会長としての水樹は、自分の為だけで動くような人間ではないと。

「あんなに一生懸命になって活動している人間が、打算や私利私欲だけでは動けないと思うぜ」

「長谷部君は、意外と大物かもしれないな」

彼が少し笑いながら、急に俺を『大物』だとか言い出した。

今の俺の発言に、どこが『大物』だったのか、まったく理解出来なったが、褒められたことが嬉しくて反応に困る。

「君は、誰よりも菅野君の変化に気付き、彼女の支えになった…そして、平野君の力にもなった…そんな所が、君の人としての魅力なのかもしれない」

「何か照れるな」

どうも、観察眼が優れていると言いたいのだろう。

行き場の無い恥ずかしさに、次の行動を見失っていると、ポケットの中で携帯が揺れる。

俺はそれを取り出すと、ディスプレイに出た名前に目を丸くする。

悠木。

彼女とは連絡先を交換してから、一度も電話がかかってくる。

嫌な予感がした。

俺は水樹に「すまない」と一言断ると、通話のボタンを押して耳に当てる。

「悠木か?」

「もしもし、長谷部君?」

受話器の向こうの彼女の声は、いつも通り落ち着いた声だった。

「どうした?」

「今まだ学校にいるの?」

「ああ、生徒会室にいる」

「実は相談があって…でも、今度にするね」

慌てて彼女は、申し訳なさそうに電話を切ろうとするのを、すかさず止める。

「生徒会はもう終わったから帰ろうと思っていたところだ」

「そうなの?」

「ああ、だから大丈夫だ」

彼女は少し間を置いて、俺にこう告げる。

「今、教室にいるの」

「分かった、すぐに行くよ」

俺は電話を切ると、確信する。

その時が来たのだと。

考えに耽っていると、我に返すように水樹が声をかけてくる。

「校内での携帯電話の使用は、基本的に禁止なんだけど…」

笑って誤摩化すと、荷物を持って俺は立ち上がる。

「それじゃ、行くよ」

「ああ、僕はもう少し残って行くよ」

「今日は話してくれてありがとう」

「いや、こちらこそ…こういう話をするのは、沢城先生相手くらいだからね」

今日、水樹から初めて自分のことを聞いた気がした。

それが少し嬉しく感じる。

「またゆっくり話そう」

「ああ」

そう言って、俺は足早に部屋を出ると、急いで教室に向かう。

扉の向こうには、少し日が傾いた教室の窓際に一人の少女が立っていた。

俺に気付いた彼女は、振り返ると少し悲しそうな顔で、こちらを真っすぐ見てくる。

悠木の元に、俺はゆっくりと近付いてくる。

「遅くなって、ごめん」

「ううん」

「それで相談って…」

少し溜めるようにして、彼女が俺に質問を投げる。

「長谷部君は、雪乃のことをどう思っている?」

「菅野?」

またここでも菅野か…と、考えることが辛くなる。

しかし、彼女の質問の意図は、他の人間とは意図が違うことは知っている。

それが、どういうことなのかさえも。

「ただのクラスメイトだろう?」

「そう…」

「長谷部君…」

時間が止まる。

まるで静寂が時間の経過さえも支配したように、俺らは見つめ合ったまま立ち尽くす。

夕暮れの空から差し込む光が、彼女の瞳をいっそう輝かせる。

鮮やかな部屋のコントラストの中で、俺はただ彼女の一言を待っている。

まるでスローモーションのように、彼女はゆっくりと息を吸い、言葉を発する。

「私、あなたが好きだわ」

予想していた言葉なのに、動揺が隠しきれない。

何を言えばいいのか分からずにしていると、彼女が続ける。

「気付いたら、いつもあなたの事を考えて、目で追っていた」

「そ、そうか…」

こういう時は、どうすればいいのか分からなかった。

小説や漫画の中の鈍感主人公でも分かるくらい明確な、その意思表示に何も言い出せなくなる。

狼狽える俺に、彼女は具体案を提示してくる。

「私と付き合ってくれない?」

どう返事するか悩む。

答えは分かっていたのに、ずっと考えていたことなのに、いざ言葉にすると表現出来ない。

しかし、彼女は俺の返事を待たずに話を進める。

「長谷部君、私の気持ちに気付いていたでしょう?」

「何でそう思う?」

「態度を見ていれば、流石に分かるわ」

ギクリとするが、彼女の気持ちに気付いたのは、ある人物の意味不明な行動の数々にあることを思い出す。

「あれだけ菅野が積極的だとな」

「あれで悪気がないから、責める事も出来ないのよね」

「確かに…」

「長谷部君は、もう返事を考えてあるのよね?」

急な話の戻し方に戸惑い、俺は言葉をまだ選びきれていなかった。

「ああ…」

「表情を見れば、言わなくても分かるわ」

ハッとするが、俺はもう言葉にせずに返事をしていたのだろう。

残酷なものだ。

「すまない…」

「謝らないで」

失礼なことをしたと、すぐに後悔する。

「迷惑だった?」

「そんなことはない!」

「長谷部君は、そう言うと思った」

何故か俺の心情に気を遣ってか、彼女は明るく笑う。

そして、踵を返す様に振り返り彼女は、真剣な表情でこう言う。

「でも、もう一度言うから、ハッキリと答えを聞かせて」

はぐらかすなという意味だろう。

きっと彼女は、事実より俺の言葉が欲しいのだろう。

それが彼女が、次に進む為の選択なのだと理解した。

「分かった」

「長谷部君、私と付き合ってください」

「ごめん、俺は悠木とは付き合えない」

彼女の顔が、微かに沈むのが分かる。

小さく溜めるように、彼女は俯くと、すぐに真っすぐ俺を見て問う。

「どうして?」

「それは…えっと…」

ここで誤摩化してはいけない、そんな気がした。

きっと、それが彼女にしてあげられることなのだと思ったからだ。

「気になる子がいる…でも、その子が本当に好きな悩んでいて…だから、今のこんな気持ちで悠木と付き合う事は出来ない」

静寂に支配された空間の中、まるで時間が止まったように彼女が静止する。

遠くから聞こえる街の音に反応するように、彼女は我に返ると一生懸命笑顔を作ってみせる。

彼女の中でも予想していたが、その痛みが、遥かに予想を超えていたのだろう。

「あーあ、フラレちゃった」

と大きく、背伸びをしながら教室の中を歩いて、背中を向けてもう一度背伸びをする。

「雪乃は、少し恋愛に臆病になっているわよ」

「え…っと」

菅野の名前が出て、反応に困る。

誰かに何かを聞いたのか、それともかまをかけられているのか、どちらにせよ明言するのは避けようとした時、彼女から意図を口にされる。

「見ていれば、相手が誰くらい分かるわ」

無言になる。

こういう時、自分の経験の無さが辛く感じる。

もっと彼女に何か言葉をかけられるんじゃないかと思うが、どうやっても言葉にできない。

そして、それが彼女に残酷な返事をしていることになる。

「ごめん」

結局は言葉が見つからずに、謝っていた。

「謝らないで、これは仕方ない事なのよ」

「恋愛って辛いものね…傷つけ合って、擦れ違って、それでも何故か誰かが誰かを好きになる、恋をする」

彼女の肩が小刻みに震えているのに気付く。

今、目の前にいる彼女は、きっと立っていることさえもギリギリなくらい、今にも泣き叫びそうな様子だ。

その彼女が、ふと顔を上げてこう言う。

「私、凄い酷い事を今から言うわ」

涙声で届いた予告に、俺は彼女に伸ばそうとした手を止める。

「もう少し早かったら…雪乃と長谷部君が出会わなければ、チャンスはあったかしら…」

吐き出すように彼女が、心の中の言葉を形にする。

そのまま下を向いた彼女に、俺は何も言えないでいた。

彼女はきっと、自分の中にある後悔も心の汚い部分も受け入れようとしている。

人の感情が如何に残酷か、思い知らされる。

自分がもし菅野を好きになっていた時、彼女が日高を好きだったら、同じようなことを思ったのかもしれない。

いや、今も彼女の中に日高はいるかもしれない。

「雪乃のこと、もう答え出ているんでしょ?」

顔も上げずに、俺にそう問いかける。

しかし、俺はここで明確に心境を話せない自分に、もどかしさを感じた。

「正直、まだハッキリとは…」

「そんなことないよ、長谷部君はもう答えが出ている」

少しの間を置いて、彼女は改めてこう言い切る。

「長谷部君は雪乃とどうなりたいか、自分が今どうしたいか、もう答えが出ている」

断言された。

あまりに綺麗に断言され、それを否定することができなかった。

何も言えない俺を、彼女は優しい笑顔で見上げる。

しかし、瞳には涙を溜めているのがハッキリと分かった。

少し早めの日暮れを背に、彼女は俺に強がってみせる。

まるで「私をフッたのに、いつまでもウジウジしているんじゃない」と言われているようだった。

「じゃあね」

そう言って、彼女は俺の横を通り過ぎる。

俺はその背に、「また明日」とだけ投げるが彼女は最後まで振り返らなかった。

それを見送って、俺が家に着いた頃には、もう辺りは真っ暗だった。

色々なことが起こって、正直フラフラで自室に戻る。

母親には、体調が悪いと言って夕飯も抜いた。

そのまま、天井を見上げて試行錯誤するが頭の中がぐちゃぐちゃで何も手につかなかった。

本当に疲れた。

こんな状況の俺に、空気も読まずに死神は声をかけてくる。

「話があるのだが…」

「すまない、今は勘弁してくれ」

俺は、モトの言葉を途中で切ってベッドに横になる。

ただ時間を忘れて、俺は天井を見上げていた瞳を閉じる。

ただ整理しきれない現実から逃げるように、眠りに落ちていった。